昭和54年08月11日 朝の御理解



 御理解 第24節
 「人に誘われて、しょうことなしの信心は、つけ焼き刃の信心じゃ。つけ焼き刃の信心は取れやすいぞ。どうぞ、その身から打ちこんでの真の信心をせよ。世に勢信心ということを言うが、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力をそろえれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中、勢をそろえた信心をせよ。」

 勢をそろえた信心をせよ。お話に承っておるんですけれども、大阪の阿部野教会毎月ご本部参拝が二千名からあるという程しの大きなマンモス教会なんです。しかも女の先生です。もうそれはそれは、もう本当にもう有り難い固まりのような先生です。そこで沢山の人がまぁ助かるわけですが、一日あの広いお広前がいっぱいになるというのですから、やっぱり、数千名の参拝があるんでしょう毎朝ね。そこの特徴というのは、とにかく皆参拝んも御承知、大阪という所は商都といわれる商売人の街ですから。
 まぁいろいろとお店の問題やらが、例えば手形がいついつまでに、いくらいくらの手形をとね、そういう時に社長がね、勿論家族の者には勿論ですけれども、従業員、社員の方達にも頼まれるそうですね。いついつまでにいくら々の手形がどうでもおちなければできん。それで皆も信心の手伝いをしてくれと、まぁ今日の御理解でいうと、おかげの受けられない者でも多勢がかけ声一つにして、一、二、の三、で持ち上げれば持ち上がるような道理というふうに、説いてありますがね。
 そういう生き方の人が沢山。だから一人がお参りすると、社員が十人おると毎朝十人がお参りするわけです。ね、だからそういう人が百人お参りすると、千人のお参りがだからあるわけです。そしてねその有り難い事には頼まれて参ったという従業員の人達も、又おかげを受けてくるという道が開けてくるんです。だから益々十重はた重になってゆくわけです。もうこれが阿部野教会の特徴だというふうに承ったのですけれども、そうであろうと思います。
 たいしてあちらから出ている御本やらを見せて頂きましても、いうなら微にいり細にわたって、いうなら金光教の信心は話を聞いて助かる道といわれるけれども、合楽ほどしに、まぁ御理解が徹底しておる所は無いように思います。だからいうならば、信心はおかげ頂く為に、家族中の者がいる、おかげ頂く事の為に従業員一同が揃うて参る。そうすると,その従業員一同も又、おかげ頂く事になってくると、いうようなですからなる程、お参りが多いという事が分かります。ね、
 だから先日も、その話をした事でしたけれども、とにかく信心おかげという所でこう浅ぁい所でどんどん広がっていくという感じである。例えばこれを、玉水さんとか泉尾あたりの大きな教会の例をとってもやっぱりそうである。どんなに昨日玉水の御本が送ってまいりましたから、本当にこれでおかげ頂くなと言う様なお話は載ってないです記事に。私共もやっぱり一つのそういう信心に憧れておりますから、先生が話されたという事をやはり一生懸命読ませてもらうけれども。
 合楽で頂いとる教えからいうとです、どうすりぁどうにこういう沢山な人が集まるだろうかと。丁度婦人会の総会が五十一回目の、毎年あるそうですが、総会が先日あっておる模様が写真に載っておりました。とにかくお広前、あの広いお広前いっぱい。婦人会の方達ばっかりで三千名、と書いてあります。まぁ本当にまぁ一人の信心から、そういう沢山の人が助かるようになるという事は実に尊い。
 だから、その泉尾の信心のどこが素晴らしいなら、あれだけのいうならば御比礼が輝くのであろう、やっぱり私共は魅力ですね。本当にどこにそういう信心のまぁいうならば、おかげを頂く一つの奥の手というか、その秘密が隠されておるのだろうかと思うんですけれども。泉尾の先生はもうそれこそ願って、願って願いぬけとこういわれるんです。だから願いの力というものが、誰よりも強うありなさると、いうふうに感じられるんですけれれども。私は昨日その事をいろいろ思わせて頂いとりましたらね。
 結局大きな願いを立てて、その願いを実行に移していかれるという所が神様のそういう大きな働きにつながられる元であろうように思うのです。私共も世界総氏子の事を願います。もう私共も本気で願っとります。世界中にそれこそ合楽理念をもって布教に。世界中に布教したいという願いを持っております。又それに價するだけの、いわば合楽でいわれる合楽理念というものは、どこへ持って行っても通用する。どこへ持って行っても助かる。論理というものもねその中に包含されておる。まぁ私は信ずるわけですね。
 だから大きな願いを立てておるという事においては、そう差ほどにあのう変わりはないだろうと思うんですけれどもね、先生の場合にはね、もう私よりも十多いですですから、もう七十五、六になられるわけでしょうか。それでいてです、世界中を股にかけて、毎年何回かこう、いうならいろんな宗教人と話合いをして、もう金光教団ではなくて、もう泉尾教会として世界中をかけ廻っておられるです。もう思ったり祈ったりするより、それが実際にそういう働きになって現れておる。
 そしてなら世界総氏子助かりという事に助かり方、さぁキリスト教もありゃ仏教もある、何々宗もあるといったような、最近では韓国の宗教人ともお付き合いなさっておる。だから、韓国からも招聘を受けてお話に行かれる、と言った様な活躍をなさっておるんですけれども、それがね、世界の総氏子の助かりという事に、どれだけつながるか分からん。大した事は成果はあがってはいないように思うけれども、その大きな願いを実際活動に現しておられるという所がです。
 いうならおかげは、結局泉尾が受けておられるという事になるのです。世界中の事を一生懸命こうして祈る。それはびくともせんでしょうけれども、その一生懸命に押しておられる力は、泉尾の先生自身のこの力こぶがでけていきよんなさるのじゃないだろうかというふうに思うです。だから信心そのものはね、私はまぁ浅いというちゃ失礼ですけれども、阿部野の場合であっても、泉尾の場合であっても、どうもその信心の、まぁ深さと言った様なものに触れ、私自身が触れきらんでおる訳でしょうけれどもね。
 いうなら、今日の御理解でいうと、泉尾の場合、いや阿部野の場合は、そういう様に一つの教会に一つの流儀があって、一人が助かるとその人にはもう十人の者がついて来るといったような、社長なら社長が社員に頼む。だから社長が頼むから、「いや」ちゃいわれん。しょうことなし参って来よるけれども、そのしょうことなしに参って来る人達おも又おかげを受けるという事で広がっていく、ね。どうぞその身から打ち込んでの信心というても、そういう意味においての打ち込み方である。
 泉尾の場合でもそうである。婦人会の大会があるといや三千名からの、とにかくあの広いお広前が立錐の余地もない程に婦人だけでも集まっておられる。そういう信心の底力というか、力というのはどこから生まれてくるかというと、先生の信心の大きな信心だと思うんです。それでなら世界中の事を願っている人は沢山いるでしょう。世界総氏子身の上安全。世界真の平和を祈る願っておる人は沢山ありましょうけれども、それをもう具体的にです、いやそれをもう実際の事としてです、自分が世界各国に飛び回って。
 いうならば、他の宗教人達とも手を握り合って、世界総氏子の助かりを計っておられる。その結果というものは、たいした事はあっていないように、私は思うけれども、それだけの力をもう実際に現していかれる所にです、泉尾の先生自身にいよいよ力がつく事であり、その力はどこに現れるかというと、泉尾教会の御比礼に現れておるんだなと、これはどこまで本当の事か分からんのですよ。私が思うた事ですから。
 もっともっと阿部野にだって、泉尾にだってもっと素晴らしいものが、あるに違いありませんけれども、まぁ今日はそういうふうに皆さんに感じてもらってです、私の話をよく理解して頂きたいと思うのです。だからおかげを受けるという事でも、その阿部野の生き方じゃないけれども、とてもお母さん一人じゃでけんけんど、あんたどんも手伝うてくれんのと、嫁御でん頭下げちから、いっちょこういうどうでもおかげ頂かんならんから、あんたも一緒に参ってくれよと、ね。
 親が頼むようにして、例えば、いうてお参りをすると、その息子もおかげ頂く事になり、嫁御も又信心の有り難さにふれてゆく事が出来る。それは深い事ではないでしょうけれども、こう広がってゆくという。又いうならば、ここでいわれておる所の、多勢がかけ声を一つにして、一、二、の三で持ち上げる。同じ祈りに一つの力を注ぐから、なる程おかげも頂けれるんだという道理がそこにあるわけなんです。
 泉尾の場合は言うなら大きな願い。僕は願いよりますというだけではなくてですね、それをもう身を持ってですね、いうなら世界中を飛びまわって、七十いくつの言うならば老齢の身を省みずに飛びまわって、世界の平和を願っておられる。いうならば祈っておる事を実際に現しておられるという事が、あの泉尾の御比礼ではなかろうかというふうに考えさせて頂いとります。
 でそこでですね、皆さんでもやはりおかげを頂く事の為にはね、思うとります祈っとりますという事が、実際に現れて来なければいけないとうという事。それこそ子供にでも、嫁御にでも、従業員の人達でにもです、頼むような気持ちでいうならば、合楽の言葉をもってすると、合楽示現活動が出来る。そしてならそのしょうことなしに参ったその人達までも、今度はおかげを受ける事になって、十重はた重のおかげというふうにつながって行くというのです。
 だいたいいま合楽で、昨日は月次祭でしたが、千五百なんぼでしょうかね、あのお届帳にあがっておるのが、だいたい二千名近くいつもあるのです。常日頃がまぁこの頃からまぁ、この頃から先月なんかはね、夏期信行がありましたから、やっぱり千四、五百名以上毎日お参りがあっとります。けれどもまぁだ、あだ泉尾とか、阿部野あたりに比較するならば足下にもよらん。私共はそういう大きなおかげに、一つの憧念心を燃やしておるわけなんですけれども。
 合楽の場合に有り難いと思う事はね、合楽の場合はどこまでも、確かに話を聞いて助かるという、教えのいうならば広さであり深さであると思うんです。ですからね教えを聞くだけではなくて、それがいよいよ広いものに、深いものになって行く事の為に、信心のいうならば研修がなされ。それを実験する事がいるね。そして現してゆくという、いうならば願うたから頼んだから、おかげになるというんじぁなくてです。分かる所が分かり、それを実行して自分の生活の上に。
 合楽でもですね。私が毎日御祈念をさせて頂くのに、この家庭は、3どうぞ本当の信心によって助かるおかげを頂かせて下さいというて願う、家族というのは沢山なないですよ。何故かというと、皆さんがそれ々に、例えば難儀をもっておられるです。一生懸命お取次を願われる。だからそのお取次が成就するようにというて願うけれども、ならこの人が腹も立たなければ不足もない、ただ有り難いだけだと言う様な一線上に出ている家庭というのは沢山ないです。
 まだ願うこつの方が強い。だから私は本当は、合楽のこれ程しの御理解を頂いとるのですからね。本当に親先生の言われとる通りにしとりゃ、不安もなくなり心配もなくなる。心はいよいよ自分で自分の心が拝みたいようになる。もうこれを進めていく以外にないという、一線上に出た家庭というのは、数えるだけしかないです合楽でも。まぁだ欠げとるもんがある。足らんものがある。折角このように信心しよるけん家族中が信心したらまぁだよかろうというね。
 だから家族中が信心して家族中が日々喜び安心、そして不平もなからなければ不足もない。只教えの有り難さに日々信心生活が本当に出来とる家庭。又それをいよいよ本当のものにして、おかげを頂かせて下さいというて願う。私が願う家庭というものはそう無いという事ですよ。本当に。だから本当に一人が私がいう信心をさしてもろうて、それが家族中なら家族中で勢を揃えて行く所にはです、もうそこには一切、例えば3神愛という頂き方が皆出来るようになるとね、も、家庭の不和などある筈がありません。
 それこそ貧争病の世界などというのは、もう意味が離れていくです。それこそ真善美に輝くような、いうなら世界がそこから開けて来るんです。そういうならおかげを私がお取次出来れる願えるという家族は、まぁ残念ながらこれ程までに徹底した御理解を頂きながら、まだそこまで至っていないという事。だから今日の御理解ではないですけれどもです、勢を揃えるというてもです、合楽の場合にはです、いうならば信心の勢を揃えるという事にならなければいけない。
 たとえて申しますと、なら合楽建設が着々と進んでおります。だから合楽に三千名なら、三千名の信者が居るといたしますならば、三千名の者が祈っております。これはね非常に弱いもんです祈るだけでは。それこそ泉尾の先生ではないけれども、世界中の事を祈るならば、世界中に飛び出して行って、いうならば世界の難儀を救わずにはおかんと言う様な、まぁ信心が実際に現れて、そして泉尾の力があり、泉尾の御比礼があるのだろうと思った様に。祈っとるだけじゃなくそれを実際に現さにぁいかんですね。
 いうなら合楽建設というのは、いつまで続くか分かりません。只このたびは合楽建設の中の一部がね、いうなら信徒会館がね、大坪家の礼拝堂か、又は先生方が入ります教職舎が、そして引き続いては奥城がね、今の差し当たった使命であり問題であり願いでありますから、合楽建設というのはどこまで続くか分からんです。けれども差し当たったそういう現在にです、もう業者が入って仕事をどんどん進めておる。
 昨日おとといここで、あのう竹中組の業者が、ここお広前いっぱいありますよ、毎月お祓いにやってくるんですよ。やっぱ、四、五十名位あるんです。それだけの人達が毎日毎日、いうならそういう御用に当たっているのを、実際目の当たりに見て聞いてね、そしてどういう様な事になっておるかという様な事位は,お互いがいわば肌こうで感じるおかげを頂いて、こりゃくず々はしておられんぞと。
 実際の上に現して行こうと言う様な事になる時にはじめて力となるふうになるのじぁなかろうかと私は思うたんです。泉尾のあの御比礼がどこにあるのだろうかと、世界中なら万国の事を祈り願っておる事は合楽においても同じ事。最近はなんかは、私は地球上の人間の事だけじぁない。もうそれこそ、天地の事は人間のいうならば、知恵力では知りて知り難き事ばかりなんですけども。
 人間の世界とのかかわりあいにおいての天地。寒天危地。「寒い天の危ない地」と神様が仰せられるが、その危ないという、いうなら人間の住んでおるこの地上をです、「歓天喜地」。歓びの天喜びの地にしてゆく事の為には、どうしても天地とのかかわり合いがいるんです。天地の清まりがいるんです。
 天地の運行に一分一厘間違いがあるような事があっては、地球は破滅するんです。そういう事を思うとです、天地の事を祈らずにはおれないのですけれども、又祈っておるんですけれども。泉尾の先生あたりのように、それが実際行動になって現れていないという所にですね、弱いものになす背を向けないだろうかと言う風に思います。合楽は世界中を飛びまわって行くという事ではないのですけれども、いうならば合楽ではいよいよ教祖の神様の教えられた信心。
 昨日の月次祭にも申しましたように、心行会というのが今度合楽で出来ます。先生方ばっかりの始めは会ですけれども合楽では心行一筋に心の行。家業の行。この心行をです、いよいよ心行という事を信心の行。それから「心の行」。それから深いという字を書いてね、「深行」、深い行 お互い信行、心行というて、合楽ではもう、表行は致しません。だから心行一本にしぼっております。microおう家業の行に極まったとお互いっておりますけれども、果してあなた方の家業の行が、「行」になっておるか。
 果して心行、心行というておるが、どの程度の心行が出来ておるかという事を、いよいよ深めて行く会がいわゆる今度「心行会」が出来るわけなんです。だから深めてゆく。私は合楽の場合はね、これを深めて実験して、そして実証してゆくという。いうならば私の日々の祈りの中にもうこの家庭はです、今の信心をいよいよ進めてさえいけばね、という一線上に出ておる信者の家庭が沢山出来るという事が、合楽の今後の力であり、今後の比礼だというふうに思います。
 これは、しかも浅いおかげの世界だけではないです、ここに言うておられますがね。どうぞその身から打ちこんでの信心とは仰っていない。どうぞ、その身から打ちこんでの「真の信心」をせよとあります。私は泉尾が真の信心ではない、阿部野が真の信心ではないというわけではありませんけれども。今日皆さんに聞いて頂いた、ただ勢を揃えて一生懸命祈っておる願っておるというのが、御比礼の元ではなかろうか。
 又は自分の大きな願いを、実際の上に行動に現しておられるのが、泉尾ではなかろうかというふうに聞いて頂いた。合楽はそうではない。いわゆるこのいよいよ真の信心を目指して、一家中がです、そこには不平もなからなければ不足もない。不安もない。只家族中で「この信心を進めて行く以外になかの」と家族中で話し合えれるような家庭が出来る事の願いなんです。家族中が本当の意味に於いての助かりなんです。これならばいうなら、あの世にも持っていけこの世にも残しておけれる。
 そういう勢を揃えた信心が神様は合楽にかけ願われておられるのではないだろうかというふうに思います、ね。只、おかげを頂く為だけでも、一人の信心よりも五人の信心というように、力を合わせる事によっておかげを受けられるが、勢を揃えて信心をさせて頂いてです、信心の徳を受ける。真の信心を勢を揃えて頂く、というどうぞその身から打ちこんだ信心をとおっしゃっておられるのですから。折角打ちこむなら、そういうお徳の受けられる信心に打ちこまなければいけないというふうに私は思います。
   どうぞ。